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環境を考えるには構造認識が不可欠!「潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束」

「潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束」 [1]では、意識潮流の変遷が端的に展開されている。
時系列で簡単な年表にしてみよう。
%EF%BC%93%EF%BC%93%EF%BC%93.jpg画像は「黄色のはちみつ」さんよりお借りしました [2]
1990年 バブル崩壊
1995年 金融機関相次ぎ破綻→私権の崩壊の予感→私権追求欠乏▼→私権圧力の急激な衰弱→私権的「否定」「自由」意識の空中分解→性の活力▼⇒充足志向⇒安定志向の顕在化
2003年 私権収束⇒私権統合の崩壊→(顕在意識の)収束不全⇒(潜在意識の)共認収束

他方、バブル崩壊に伴う経済危機は、人々の間に危機感発の安定欠乏を生起させ、目先の安定志向を強めさせる(注:この危機発の安定志向は、’70年以来の充足発の安定志向とは別物である)。そして、この危機発の安定志向は、「自由」が空中分解したことも相まって、目先の秩序収束の潮流を生み出してゆく。タバコ、セクハラ、食品叩きと続く魔女狩り=マナーファシズムは、この秩序収束の潮流に乗った法曹官僚とマスコミの仕掛けである。
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しかも、この目先収束は、秩序収束の段階に留まらず、更に目先の制度収束へと突き進んでゆく。
豊かさの実現以来の充足志向→実現志向の大潮流は、’95年、私権意識の衰弱が顕在化したことによって、一段と強くなっていったが、同時に、危機発の目先の秩序収束の潮流が生起したことによって、実現志向と秩序収束の合流点に目先の制度収束の潮流を生み出していった。既存の制度の枠組みの中での、授業や試験や資格への収束が、それである。

上記の潮流分析から環境問題を眺めてみると、新たな事実がわかってくる。
環境問題とどう関連してくるのかを見てみよう。
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市場社会がもたらした環境問題は明治時代には顕在化してきた。しかし、本格的に賠償問題などが活発になったのは1970年以降である(あの足尾銅山鉱毒事件の賠償も70年以降にされている)。70年前後から環境問題に限らず運動が発展してきたが、運動団体同士の利権争いや、複数のスポンサーによるライバル企業叩きの目的に換骨堕胎しながら続いてゆく。この運動の欠陥は結局市場原理から脱却できなかったことにある。そしてその結果、環境問題を生み出し続ける市場原理という体制を逆に補完する活動になってしまった。 [3]
いわば目先の市場原理あるいは私権統合という秩序の中で、その体制をならしめている思想のまま、アンチとして運動しただけである。当然、現実を否定するだけでしかもなにも変えることはできなかった。(もしも環境を本当になんとかしようと考えれば、市場原理にかわる原理の構築が不可欠となるが、そこにはだれも踏み込もうとしなかった)。これについては以下のるいネット投稿が端的に指摘している。

注:この点は、新しい運動である筈の、環境運動も同じである。
云うまでもなく環境破壊・肉体破壊の原因は、市場拡大にある。にも拘らず、市場拡大を推進してきた旧思想に代る新理論を構築できず、当の旧思想に依拠したままなので市場の補完運動に堕し(それではごく一部の人しか参加しないので)、環境運動のNW化さえ出来ないでいる。
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しかし、こうした運動は90年以降もNPOやボランティアというカタチを生みながらも一定収束力を持ち続ける。
そして、不安、危機発の目先の秩序収束にのっかり、環境ファシズムとして顕在化してくる。
少数団体による割り箸撲滅運動のような次元にとどまっているうちはまだ良かったが、さらには法制度化されてファシズムはより強力なものとなってくる。ゴミの分別もヒステリックに叫ばれ、あっという間に法制化された。その最たるものは「CO2による温暖化」問題だろう。
MinistryEnvFutsugou.jpg(画像は環境省!!のホームページ [4]よりお借りしました。)
「チンケな運動」とは違い、マスコミそして官が主導しはじめたところに大きな危機感を感じる。このファシズム化をあおり、衰弱する市場に対して欧州貴族が全世界にしかけた新商品としてCO2排出権が登場した。これはペットボトルのリサイクル市場化や、エコ商品の新市場創出と規模は違えど同じである。
私権の衰弱による共認収束は本源的な自然回帰を伴うが、目先の制度収束は残存する私権制度に収束しているため、こうした「環境市場」という相矛盾するいびつなものをつくりたらしめたことは、この制度収束の強さを物語る事例だろう。
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この潮流分析から確実に言えるのは、この目先の秩序収束、制度収束をつきぬけない限り、環境問題は解決しないし、新しいエネルギーを考え、あるいは提示する上でも不可欠であるということである。
学者が答えを出せないのもこの地平に立てないことが大きい。スポンサーがいないと研究ができないという限界も市場原理のままだからなのだ。
一方、確固たる可能性は、充足、安定、保守の潮流の顕在化と潜在下の共認収束にある。
環境、新エネルギーを考える上で確実にここが突破口になる。
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(画像はリンク [5]よりお借りしました)
例えば、「石油に代わる新エネルギーは?」という問いだけでは不充分で、けして答えは出ない。
大前提の市場原理→過剰消費→石油商品という構造を見直さなければならない。
そこをつかめば、そのような大量過剰消費に万能な新エネルギーなどあろうはずがないし、あったとしても、結局根本の環境問題はなにも変わらないという単純な事実に気がつく。

さらに言えば、市場原理のさらに背後にある私有権(私権)の共認をどうするか?まで追求する必要がある。法律も制度も全てが「個人の私有のルール」を取り決めたものだ。個人の私有が権利として共認されているから、個人の好き勝手が通用してしまうのだ。
ただし、では「個人の自由を許すな!」「環境を守れ!」と言うだけでは充足志向の潮流からしても合わないし、なにより可能性を感じない。
我々が目指すべき方向はあくまで充足志向の先の実現志向である。

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