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環境と経済2

>経済と環境についてどう折り合いを付ければいいの?(環境と経済1 [1])
その疑問に対して同志社大学宇沢弘文教授が一つの可能性を示している。

2.「コモンズの悲劇」の本質~社会的共通資本とは
%E5%B1%B1%EF%BC%91%EF%BC%92.jpgまず宇沢教授は、「コモンズの悲劇」に対して、「オープンアクセス」と「コモンズ」との区別についての、完全な誤解だとしている。

オープンアクセスというと、「誰でも自由に利用できる」ことを意味するが、実際のコモンズというのは、利用者は特定の村、地域の人々か、あるいは特定の職業的、社会的集団に属する人々に限定されている。
そして利用者にはコモンズを利用するときのルール、掟が、厳しく規定されている。コモンズというのは、むしろ、オープンアクセスを否定するものである。
したがって、ハーディンのいうような「オープンアクセスなコモンズ」というのは、世界にもほとんど例を見ず、その意味ではハーディンの研究は現実性を欠くものである。

と宇沢氏は評価する。
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宇沢氏は、このような観点から、漁業コモンズや森林コモンズについて、動学的な経済成長理論の枠組みで研究し、その帰結として、利用者になんらかの形式で適切な負担を賦課するような制度や掟を施行すれば、コモンズはエコロジカルな意味で最適な成長経路を持ちうることを証明している。
実際に漁業や林業では、その生産の源となる水源や森林資源を「コモンズ」という制度によって、管理・維持してきた。その際に施行された「掟」こそが、まさに社会的共通資本の運用ルールの典型といっていいものである。

この社会的共通資本の代表例は、「自然環境」である。宇沢氏はこれを「自然資本」と名付けて、社会的共通資本の最重要の財に位置づけている。
そして

社会的共通資本とは、市民一人一人が人間的尊厳をまもり、魂の自立をはかり、市民的自由が最大限に保たれるような生活を営むために重要な役割を果たすため、私有や私的管理が認められず、社会の共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・維持されるべき財である。

と定義している。

具体的には、自然環境を中心とした「自然資本」、生活の根幹を支える電気・ガス・鉄道・下水道などのインフラとしての「社会資本」、さらには医療制度・学校教育制度・司法制度・行政制度・金融制度なども、「制度資本」と呼んで取り込んでいる。


%E6%B0%B4%E9%81%93%E7%AE%A112.jpg宇沢氏は

「社会的共通資本について、自由競争による価格取引にさらされてはならない」

と論じている。つまり、個人個人が勝手気ままに生産や消費に利用することが許されず、なんらかの社会的管理とコントロールがなされなければならない、と主張しているのである。


ここまでなら、通常の「環境に関する経済学」(外部性に関する経済学)が、市場取引には何らかの規制や課税が必要だ、とする論理と同じなのだが、宇沢氏の理論の特徴はその先にある。
それは、

「社会的共通資本の適切な供給と配分によって、自由競争市場社会よりもより人間的でより快適な社会を作ることができる。」

と主張することである。
つまり、「環境」を、市場システムで最適化できない「やっかいもの」として扱うのではなく、むしろ逆に、市場システムが決して実現することのできないより魅力的な社会を生み出す源泉だと見なす理論だといっていい。

 この宇沢氏の考えを象徴するのが、以下の「ミニマム・インカムの理論」だ。(詳細は小島氏のブログ [2]を参照してください。)

一般に社会的共通資本は、生産量を簡単に増やしたりできず、また、価格が高騰したからといって、他の財で安易に消費を代替できないようなものである(例:空気や医療)
このことを経済学では、「生産や消費の価格弾力性が低い」、という。このような性質を持つ社会的共通資本は、インフレーション(物価の上昇)の継続する経済では、平均的なインフレ率を超えて価格が高騰することが容易に想像される。
社会的共通資本は市民に法律で保障されている最低水準の生活に根本的に関わる財であるから、このようなインフレ経済のもとでは、最低限度の生活を保障するための金額(ミニマム・インカムと呼ばれる)は、平均所得の上昇に比べて高い上昇率を示すことになるだろう。
したがって、インフレーションの恒常化する通常の経済においては、ミニマム・インカム以下の所得の市民が増加し、社会は不安定化する。そして、生活保障を貨幣による所得移転で行う現行制度では、貧困者の生活水準は次第に悪化をしていくことになる。
したがって、社会の不安定化を防ぐためには、社会的共通資本の十分な公的供給と社会的管理が不可欠であり、市民の最低生活水準の保障は、金銭の給付ではなく社会的共通資本の充実によって行うべきである。

要するに、「お金よりも環境の整備」ということ。
 つまり、生活保護をお金でもらう社会よりも、良好な空気・水資源を備え、下水道・鉄道等が整備され、人間として不可欠な教育や医療が十分に享受できる社会の方がいいということなのである。

 この考えは、ある意味、驚くべき逆説の理論だ。伝統的な厚生経済学では、最低生活保障は物資での供給ではなく、貨幣での供給のほうが望ましいとされる。なぜなら、その物資がいいならお金で買えばいいのだし、別の物資を好むならそれを購入することもできるからである。つまり、「貨幣」には「選択の自由」があるということだ。そのようないわば経済学的「常識」に、まっこうから挑戦的なスタンスをとっていることになる。

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全てを市場に巻き込むことによって市場の圧力は強大になり、掟や規範をぶち壊してきた。その帰結としての環境破壊なのだ。だから市場システムをそのままにして、環境対策をしても全ては市場に巻き込まれ、市場の論理の中で経済至上主義を補強しているに過ぎないのです。

この貨幣の自由度を制限することで、市場の力を制限し、環境対策に取り組むということです。
なかなか可能性を感じる論理だと思います。

例えば、一億総給食制度。好き嫌い言わず、その土地で取れたその季節のものをいただくという地産地消に立脚すれば可能性あります。子供の頃、給食を楽しみにしていたのは私だけではないでしょう
とはいえ給食嫌いだった方からは轟々たる非難がありそうですが、金で自由(=好きなもの)を買うシステムを見直してみませんか??

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