三種の神器がいきわたった70年ころは、ほぼ豊かさが実現された時期と言っても良いでしょう。そのころから、にわかに、公害などの環境問題が注目されだしました。
1964年には、レイチェルカーソンの「沈黙の春」が和訳され、1974年に連載が始まった有吉佐和子の「複合汚染」が注目されました。
1971年には「ゴジラ対ヘドラ」が公開され、子供たちにも公害問題の認識が深まりました。
豊かさが実現されるまでは、貧困の圧力=生存圧力が大きく働き、日本人皆の活力の源となっていました。
何をおいても食べること→豊かになることが第一義で、その目的のために脇目もふらずに皆必死に戦っていました。そのため、環境悪化も、被害を受ける他者も、気にするのは後回しか、見ないふりが当たり前の時代でした。それが、豊かさが実現されるまでの私権時代。
しかし、豊かさが実現され、貧困が消滅すると、主圧力が生存圧力から同類圧力に移行していきます。その中で、公害をはじめとして、環境問題が注目され始めました。
これは、環境問題の解消への第一歩、萌しと言えるのではないかと思います。
そのことを構造的に明快にした投稿を紹介します。
超国家・超市場論6 生存圧力に基づく同類闘争から、同類圧力に基づく同類闘争=認識競争へ
その基本的な答え=実現基盤は、既に実現論4_1_07実現論4_1_08『人類500万年のパラダイム転換』に示されている。生存圧力から同類圧力への大転換が、それである。(注:同類圧力とは、人々の課題共認や規範共認や評価共認が生み出す共認圧力であるが、その最先端は常に同類闘争の圧力へと収束してゆく。)
人類は、既に物的な生存圧力から脱却した以上、生存圧力を背景とする同類闘争(掠奪闘争や私権闘争)から、同類圧力を背景とする同類闘争へと脱皮するしかない。その新しい同類闘争こそ、この社会統合板で1~2ヶ月前に明らかにされた新しい潮流、即ち人々の外向収束(社会収束)⇒認識収束が生み出す認識闘争(評価競争)である。
つまり人類は今、史上はじめて、人類本来の共認機能に基づく共認闘争によって掠奪闘争や私権闘争を止揚し、社会を再統合し直す段階に来たと云えるだろう。
それでは次に、その認識闘争の場が、どのようにして国家と市場を超えてゆくのかを見てみよう。その為には、いったん国家と市場の成り立ちとその統合限界を押さえ直しておく必要がある。
環境問題が解消にむかうには、自然の摂理に即した社会を皆で作ることが条件となります。
その実現基盤が、生存圧力から同類圧力へのパラダイム転換なのです。