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地球環境の主役 植物の世界を理解する22 森の民ゲルマーニー人を「ガリア戦記」より読み解く

みなさん、こんにちは 😛 。
前回の古代ギリシャの投稿に続いて、今回は「森の民 」として有名なゲルマーニー人について投稿します。
このゲルマーニー人については「ガリア戦記:カエサル著/近山金次訳(岩波書店)」 [1]を参考に、その姿に迫ってみたいとおもいます。
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写真はココ [2]からお借りしました
 
では、その前にいつものポチッとお願いします。
 


①ゲルマーニー人とは、どこにいたのか?
「ガリア戦記、第六巻(紀元前53年)」では、「ガリアとゲルマーニーの風習」についてこう記述があります。 
カエサルにとって、周辺の氏族を恭順させていく中で、恭順化できたガリア人と恭順できないゲルマーニー人がいました。そのゲルマーニー人をライン川・ドナウ川の東方に住んでいた「森の民」と呼んだのです。
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写真はココ [3]からお借りしました
 
 
②ゲルマーニー人が住んでいた森とは? ―森と狩猟について―
森の民といわれた彼らが、具体的にどのような所に住んでいたかを見てみましょう。

ガリア戦記 6-25
 
前述したヘルキニアの森の幅は、軽装のものでも九日間はかかるひろさがある。他には測りようがなく、道の測り方も知らない。その森はヘルウェティー族やネメーテース族やラウラキー族の国境にはじまり、ダーヌウィウス河に沿って真直ぐにダーキー族やアナルテース族の国境まで続いている。それから左へ(※1)、河流とは別の地方へ曲がり、広大なので多くの部族や国境に接している。ゲルマーニアのこの地方の誰でも、六十日間の行程を経て森の端まで行ったものがないし、森がどこからはじまるのか聞いたものもない。森の中には確かにほかでは見ることのできない種類の野獣が多く棲息している。中でも他のものと全く異って記憶すべきものは次の如くである。
※1:すなわち北方という意。Carpathia山脈の西方、Jablunka山脈の近くでDanube河南方の平原を抜けて南下することになる。この点のことを言うのであろう。

 
 
ガリア戦記より読み解くと、彼らが住んでいたといわれるヘルキニア森とは、途方もなく大きな森のようです。またその森の中で、次に出てくる狩猟を主な糧とし生活を営んでいました。
☆ヘルキニア森とは、現在のドイツ南部からチェコにかけての山岳地帯、特に現在のチューリンゲンやボヘミア、モラヴィアのあたりを指すと考えられているそうです。

ガリア戦記 6-26
 
第三の種類はウリーと呼ばれるものである。これはその大きさがやや象に劣り、牛のような姿と色と形をしている。その力も速さも大したものである。人間でも野獣でも姿を見れば容赦しない。人間は陥穽で盛んにこれを捕らえて殺す。青年はこの種の狩猟をし、その奮闘で身体をきたえる。いちばん多く殺したものは証拠として角を皆に見せ絶讃を浴びる。小さな頃につかまったものでも、人に手なづけられたり、かいならされたりしない。角の大きさや姿や形は我々の牛の角のとは全く違う。人々は熱心にこれを求め縁をギンで囲み、盛大な饗宴の盃に使う。

 
彼らは「ウーリー」、今でいう「ヨーロッパバイソン [4]」を狩猟の糧としていました。
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写真はココ [2]からお借りしました
 
このヨーロッパバイソンが現代でも生息する、最古の原生林「ビャウォヴィエジャの森 [5]」を参考にすると、彼等の住んでいた森は、現代のような完全な針葉樹林帯ではなく、広葉樹種が2/3・針葉樹種が1/3を占める形だったと考えられます。
主にはマツやオークの森、湿原林、そして水に浸かったハンノキやトネリコの森が残されており、豊かな恵みをもたらす森林複合体だったのではないでしょうか。
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写真はココ [2]からお借りしました
 
 
 
 
 
③ゲルマーニー人にとって農耕とは? ―森を利用した闘い方―
では、彼らが狩猟だけではなく、農耕についてはどのようにしていたかを見てみましょう。

ゲルマニア(第一部) 23 [6]
 
彼らは小麦や大麦を発酵させてつくったワインのような飲み物を飲みますが、ライン川やドナウ川の近くに住む人たちは輸入したワインも飲みます。食事は質素なもので、野山でとった果物や、狩りの獲物、それにチーズを食べますが、ろくな調理も味付けもせずとも飢えを満たしています。<中略>

ガリア戦記 6-22
 
農耕に関心がない。食物の大部分は乳と乾酪と肉である。誰も一定の土地や領域などもっていない。首領や有力者は年毎に部族や或いは一緒になった血族に適当な場所と土地を割り当てているが、翌年になれば他へ移動させる。これには多くの理由がある。習慣にしばられて、戦争をする熱意が農耕にとりかえてしまわないように、広い領地を手に入れようとして、有力者が下賎なものから財産を奪わないように、寒さ暑さをしのぐのに気をつかって建築をしないように、党争不和のもとである金銭の欲望が起こらないように、民衆がそれぞれ有力者と平等に取り扱われているのを見て満足するように、というのである。

この時代、ローマを中心とした世界では、パンとワインの食文化がありました。
この食文化を維持するためには小麦と葡萄が必要なのは言うまでもありません。また、ローマ時代の農業形態のひとつに、ウィラと呼ばれる農業拠点がありました。当時の農業は、一年ごとに耕作地を休閑させて農地の地力を高める二圃制というものでした。ウィラには牧畜のための放牧地や葡萄畑が、小麦の耕作地とは別に設けてありました。
ゲルマーニーの世界では、麦などの栽培はそれほど発達しておらず、かわりに上記のように狩猟が発達していました。パンやビールをつくってはいましたが、ローマに比べるとその規模ははるかに小さいものでした。
依然として狩猟採集の生活が最重要視されていたのです。
ゲルマーニーの集落は小規模なもので、数世帯の家が寄り集まってできているだけでした。周辺には小規模な耕作地と、広い放牧地、そして森がありました。牛・豚の肉や狩猟した獲物の肉、畜産品であるチーズやバターがゲルマーニー人の生活を支えていました。
(牛は休閑中の耕作地を放牧地とし、豚は森で飼育をしていたようです。)
 
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写真はココ [7]からお借りしました
 
④ゲルマーニー人の民族性とは? ―森を利用した闘い方―
最後に彼らが、どのような民族だったのかを、その特徴的な闘い方より見てみましょう。

ガリア戦記 6-34
 
前に述べたように敵には武力によって抵抗できる部隊も町も守備もなく人々は各地に分散していた。隠れた谷間や森林地帯や困難な沼地や少しでも自分を保護し助けてくれそうな場所にじっとしていた。そういう場所は近くのものには分っていた。味方は部隊全部を護るというよりも――― 敵がみんなおじけついて分散していたから何の危険も起こるはずがなかった――― 一人一人の兵士を護ることに気を使わなければならなかった。それは或る程度まで部隊の安全に関係があった。なぜなら、戦利品を得たいという欲望はかなり遠くまでも多くのものを誘ったが、はっきりしない隠れた道をもつ森林地帯は密集部隊の前進を許さなかった。もし討伐の仕事を徹底的にやって、この悪辣な人々を絶滅してしまおうとすれば、味方は更に多くの部隊を送って兵士を分散させなければならなかった。ローマ軍のやり方や習慣からマニプルス隊を隊旗の下に集めて置こうとすれば、野蛮人は地形そのものに護られることになる。野蛮人もそれぞれ隠れた場所に待ち伏せて分散した味方を取り囲む勇気がないわけでなかった。こうした困難に直面した味方は見張りで警戒されるだけは警戒し、みんなが復讐心に燃えていたけれども、兵士を失ってまでも敵を傷つけるより、寧ろ傷つける機会を看過してしまおうということになった。カエサルは近くの部族へ使者をやり、戦利品をやるという望みでみんながエブロネース族を略奪するように誘い森の中では軍団兵より寧ろガリー人の命に危険に曝させ、同時に多勢でエブロネース族を取り囲み、あのいまわしい罪のためにその血も名前も滅ぼしてやろうとした。多数のものが忽ち各地から集まった。

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写真はココ [7]からお借りしました
 
ゲルマーニー人は、森の中で生活し、森を味方にすることでカエサルを悩ませてきました。
彼らが、森や自然についてどのような意識であったかを次回に扱ってみたいと思います 🙄 。

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