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御検地帳 写 高出村
http://www1.ocn.ne.jp/~hanajima/newpage30.html [2]より拝借
江戸時代をさぐるシリーズです。
hirakawaさんの記事で、お米の流れについてスッキリと書かれてましたが、今回はその米をつくっていた農民の土地所有意識はどうだったのか探っていこうと思います。
その前に、クリックよろしくお願いします。
■私有ではなく共有だったという提起をうけて
江戸時代の土地は現在的な意味での私有はなく、共有に近かった。ただ、年貢を納める代表としての名義は登録されていた。これをもって、西洋と同じ土地私有とみなし、社会体制を分析している文献が極めて多い。
これを前提にするから、社会関係はどのレベルにおいても支配者と被支配者だけとなり、昭和初期まで現存した村落共同体という体制は説明できなくなる。また、現実のこの共同体のおかげで、役割などの充足は十分過ぎるほどあったことも説明出来なくなる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=207508 [3]より引用
という提起をうけ、それを裏付けることを調べてみました。
■前提としての太閤検地と徳川幕府による継承
江戸幕府は、前段の豊臣政権が全国で展開した検地を踏襲しました。その太閤検地とはどういう意味があったのかをまとめると、
1.全国でどのくらいの生産高となっているのかを押さえた。
実際に土地の丈量調査を行い、従来貫高で示されていた田畑を石高(生産高)で示すように改めた。また、六尺三寸四方を一歩として三〇〇歩を一段とする段歩制を採用、耕地を上・中・下・下々の等級に分け、使用枡(ます)を京枡に統一した。
2.納税者を直接耕している農民に確定した。
村ごとに検地帳を作って耕作農民の名を記し、耕作権を保証するとともに年貢負担者とした。
1.はともかく、2の意味は、これまでの貴族、僧侶などの重層的な利権を剥奪して農民の地位を確定させたことが画期的でした。これにより、武力に基づく力の支配から、武士と農民を分離し、自給自足の村落共同体による米の生産を基盤とした社会を成立させたことを示しています。
■名目としての検地帳の名請人と実態としての村請制
検地帳は今でも現存しているものが、各地に残っています。そこには、納税責任者としての名請人が記帳されていますが、納税=年貢は実態として村全体で一括して収める村請制に移行していきます。これは、実際の米の生産が、村全体で行う全体課題でなければ成立しないからです。そこでは所有という概念はなく、「村としての共有」という意味しかありません。
さらに、幕府の政策として、「田畑永代売買禁止令」によって、実質土地を持つだけでは意味がなく、耕してとれた米に価値があるものとしており、あくまで米の生産を担う村落共同体を維持させようとした意図がうかがえます。
■新田開発の事例より
(近世史家田中圭一教授は「村から見た日本史」)
江戸時代の)新田開発は各地から2男、3男が招かれお互いなんの関係もない人々が力を合わせて従事した。上下の身分関係を持たない百姓が集まって村を作るから公平・協働はがルールの基本となった。土地は家単位で皆に均等に分け与えられた。ハエと呼ばれる開発法は水害や干害の場合の利害の連帯的な保障制度だった。そして協働の精神は個々の家に直接関係のない用水開さくへの労働供与として「余荷」制度を実現していった。
(中略)
田中教授によると江戸時代の小作の取り分は地主:小作=1:1だそうで、小作もかなり豊かだったようである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=24182 [4]より引用
■共有することが充足だった
こうしてみると、現在、ほしいものを手前勝手に売買しても、大して充足できない現実と対照的です。
みんなで、共有のものを、共同で生産していくことに価値があり、充足の前提であるという事実が浮かび上がります。
この原理があったからこそ、江戸100万都市でさえ、下町風情に代表される擬似共同体を形成していったのではないかと思います。
これは、農民に限らず、町人たちが共同体のもつ充足価値を無意識にも求めていたし、統治側の幕府も、その共同体の維持についてはまさに腫れ物に触るかのように慎重に対処していたのではないかと思います。