>家庭やレストランから出る一年間の食べ残し食品は700万トン で、金額にすると11兆円
でこれは日本の農業と水産業の総生産額(12.4兆円)
に匹敵する。つまり国内で作られた食品を全て捨てているのと同じ
。
「食品ごみ・食べ残しについて [1]」 より
コンビニやスーパーなど食べ物を扱うお店、そして家庭でも、賞味期限・消費期限が切れると、まだ食べられるとか考える前に、当然のように捨てられています。その量はハンバでない量になっています。
この消費・賞味期限ってみんなどんな意識で捉えていますか?なんか絶対的な指標になってきているような気がします。そのこと自体に、違和感を受けます 8) 。
なんでこんなにムダをするようになってしまったのでしょうか?
今回は、消費期限・賞味期限という観点から探ってみたいと思います。
その前にカツィッ とお願いします。
「人間は脳で食べている」・・伏木亨著という本 を読んでいます。
野生動物が食べ物を摂取するときは、命がけだった という話を出発点に、人間がいかにして安全性を獲得してきたかという話があるのですが、最近の賞味期限・消費期限の偽装問題なんかの話と繋がっていて面白いです
。
この本を参考に、考えてみました。
人間を含め動物は、体内では作り出せないものを外から取り入れて活動しています。
食物が人間に比べ絶対的に不足している野生動物は、食べられるものがあれば、何でも食べます。それが食べられるものかどうかを判断するために、匂いをかいだり、触って感触を確かめたり、ちょっと舐めてみたり、何度も確認してから食べます。飲み込んでから、これには毒が含まれてました~~! では遅いですから、かなり慎重に判断しているはずです。
一方、人間はどうでしょうか?
怪しいと思われるものは、まず口にしません。人間の場合は、口に入れる前に、これは安全であるとか、どのくらいの栄養が含まれているのかというところまで分かります。食品のパッケージに書かれている表示という「情報」で判断しています 。
人間が野生動物と異なる点は、この情報によって、安全かどうかを判断できる点です。
動物はできるだけ先回り、あるいは近道して安全を判断しようとするというところは共通しており、普遍的なもので、そういった意味で、人間が情報で判断するようになったのは、「進化」 とも言える気がします。
しかしながら、人間は、情報による安全を獲得できた半面、安全が完璧に保証されない限り、怖くてなにも食べられない生活になってしまいました。
次から次へと出てくる食品関係の賞味期限・消費期限の偽装問題。。。
確かに不安は募りますが、なんか違和感ありありじゃないですか
うまく捉えられないんですけど、なんか行き過ぎているような感じはしませんか
もうちょっと、動物的な感覚による判断 をしてみてもいいような気がするのですが。。。
情報に依存するあまり、動物的な感覚による判断機能は退化してしまったのでしょうか?
感覚と頭(情報)の間にとても大きな剥離 が起きていることは確かでしょう。
死ぬ(腐る)ってどういうこと?生きている(新鮮)ってどういうこと?
食べ物も元をたどれば生き物ですから、その生態についてリアリティーが無さ過ぎな気がします。昔の人の大半は農業をしていて、生き物(作物・土)を扱っていたから、そこらへんの感覚は今よりももっと持っていたことでしょう。
感覚による判断・感覚から得られる安心感。昔の人は、そんなものをもっと使っていたのではないでしょうか。
現代人はなぜ、ここまで情報に依存するようになったのか?
そこらへんを考えることが、食べ物の無駄を無くしていくポイントになるような気がします。
BY せきや