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自然の摂理に則した、「人口抑制」(‘~’ )

コンバンワみわつんです。
本日は、江戸時代の人口抑制についてのお話
江戸時代は、循環型の社会 [1]でした:roll:。
また、江戸時代の人口もあまり変動がなかったようです
なにか、人口を抑制させるようなことをしていたのでしょうか・・・・
江戸時代の人口抑制について調べてみました
事実を追求していきたい!
応援お願いしまっす


江戸時代の人口抑制について書かれたサイト発見しました。
永井俊哉ドットコム「江戸時代の人口調整方法」より [2]
以下、上記サイトより、一部抜粋
1. 間引きの役割は過大視してはいけない

多くの人が思いつくのは、間引きによる口減らしにちがいない。江戸時代中期以降、飢饉時の農村などで、圧殺・絞殺・生き埋めなどの方法により、乳幼児の殺生が行われたことは事実である。当時7歳以下の子どもは神の子とされ、いつでも神にお返しする(つまり殺す)ことができるとされていた。間引きは「子返し」とも呼ばれていた。
子返しのような粗っぽい方法は、あくまでも緊急避難的で例外的な方法であって、その役割を過大に評価してはいけない。実際、江戸時代の人口調整は、恒常的には、もっと巧妙な間引きによって行われていた。

「子返し」ではない、巧妙な間引きとは??
2. 長男だけが必要な社会

江戸幕府は、農地の細分化・農民の零細化を防ぐため、1673年に分地制限令を出し、これに伴って、農民の間でも嫡子単独相続が定着していった。分家の余地がある富農の場合を除き、長男のみが家督を相続するわけだから、必要なのは、長男だけということになる。しかしだからといって、次男以下の男の子を直ちに「神に返す」わけにはいかない。長男は夭折するかもしれないので、次男以下の男の子も、リスクヘッジのために必要だし、男の子がいない場合の養子縁組みのために、女の子も必要だった。

フムフム。長男以外を子返しするわけにはいかない。
でも、全ての子供を手元で育てるわけにはいかない・・・・
どうするの?
3. 余剰人口のゴミ箱としての都市

さしあたり不要だが、万一に備えて必要な余剰人員は、どのようなゴミ箱に捨てられたのか。答えは都市である。当時の農村を、ほとんど労働者の出入りがない閉鎖的なコミュニティと想定している人が多いが、これは偏見だ。現在の住民基本台帳に相当する宗門人別改帳を調べてみると、半数以上の子供が出稼ぎ奉公に出ており、しかも奉公先の大半は、江戸や大坂をはじめとする都市であることに気が付く。
江戸時代の都市では、死亡率の方が出生率よりも高く、逆に農村では、出生率のほうが死亡率よりも高かった。このことは、農村で生まれた余剰な子供が都市に送り込まれ、そこで命を落とすことにより、全体の人口が一定に保たれたことを意味する。奉公に出た子供たちは、後継ぎや結婚のために都会から村に戻ることもあったが、かなりの割合は奉公先で死亡している。
都市は農村よりも人口密度が高い。江戸の町地の人口密度は、1平方キロメートルあたり6万人にもなったと言われている。人口密度が高いということは、それだけ疫病が伝染しやすいということである。日本の人口が、食料供給の限度を超えて増えると、奉公人のような下層階級の人々は栄養不足になり、抵抗力が低下する。しかも、病原菌にしてみれば、人口が増えるということは、それだけ餌が増えるということであるから、人材の在庫が余剰になってくると、疫病の流行により、自動的に在庫一掃処分となるわけだ。
都市には、これ以外にも人口増加抑制機能があった。女の子の場合、都市で奉公をすると、村に帰って結婚する時期が遅れ、たくさん子供を産むことができなくなる。現代と同様に、江戸時代の後期にも、女性の晩婚化と少子化が進んだことが、様々な調査からわかっている。

江戸時代はまだまだ生存圧力の高かった時代。
栄養失調や食糧不足などの外圧も高かった。
そんな外圧=自然の摂理にのっとった人口抑制だったんですね

なるほどです。
では、いまの外圧とは?自然の摂理とは?そこに今度は突っ込んでいきたいとおもいます
みわつんでした

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