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森のダム問題にある背後の問題

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るいネットの注目サイトに「代替案」というサイトがあります。
その中に国が進めるコンクリートのダムに対して、緑のダム(つまり、森林自体の保水力効果)で事足りるというテーマが展開されています。
 『何故、国がそんなにコンクリートのダムにこだわるのか?』
 単なる技術論争を超えた問題が底流に潜んでいると思っています。


 かつては、コンクリートの巨大ダムは、発電や水利、治水の観点で、当たり前のように作られてきました。そして、当然、社会資本の公共事業として膨大なエネルギーと資本を投下したのはいうまでもありません。こういう事業がかつての活力(GDP)の一翼を担っていたし、それが社会正義であるように輝いていたものだったと聞きます。  ところが、貧困が消滅し、みんなが、がむしゃらな私権追求のあり様に疑問を抱き始めます。
  『本来はどうあるべきか?』
 
これが、意識の深いところで作動しだしたから、緑のダムという自然の治水能力に気付かされたのだと思います。既に時代の潮流は、自然の摂理に包摂された社会構造を追求する時代にはいったのです。
 >中根氏の説とは以下のようなものです。
 放置人工林を適正に間伐することにより、下草や潅木が繁茂した状態になれば、森林土壌が改善されて、土壌浸透能(森林土壌が雨水を吸収し、地下に浸透させる機能のこと)が増加する。その結果、ホートン型地表流(雨水が土壌によって吸収されず地表面を流下する現象のこと)の発生を抑えることができる。それ故、洪水時のピーク流量も大きく低下する。>引用http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/a74682b03f59cca8f35e28723b72db6e [1]
これに対して、国側の論拠として
>国交省所管の土木研究所の吉谷純一氏は、つぎのように述べて、中根氏の学説を攻撃しております。
中略
まず、浸透能を議論すること自体、無意味である。先述の解説の通り、森林斜面の大部分で表面流は発生しないので浸透能の差は、洪水流出と直接関係しない。表7-1に示すとおり(表は省略)、林地の最終浸透能はいずれも200ミリメートル/時を超える一方、日本の最大一時間雨量記録は187ミリメートル/時と林地の浸透能より小さい。これは最大級の降雨があってもすべて地中に浸透し、降雨強度が浸透能を上回ることによる表面流は発生しないことを裏づけている。たとえ攪乱などによる局所的な表面流が発生しても、流下する途中のどこかで地中へ浸透するはずである。したがって、浸透能のみから治水機能を論じることはできない。しかし「緑のダム」論者のなかには、「治水力(浸透能)」という浸透能が大きいと治水効果が高いことを示唆する文学的表現を用い、なおかつ浸透能の差異のみを根拠に、針広混交林化によりピーク流量をさらに削減できることを数値モデル計算で示し、あたかも科学的根拠があるように見せかけている事例がある。>引用http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/a74682b03f59cca8f35e28723b72db6e [1]
そして、
>恩田裕一氏らによる最新の研究成果
 さて最近になって、恩田裕一氏(筑波大学教授)らによって、この「科学的定説」を覆す論文が発表されました。従来の「土壌浸透能」とされる数値は、樹冠の下の林内で水を散水して測定されていたのですが、それは実際の降雨を再現していません。いうまでもなく実際の降雨は、樹冠の上から降ってきます。その結果、雨水は一度葉にたまってから大きな雨滴となって地面を叩きます。下草のない森林土壌に、大きな雨滴が落ちると、土壌団粒が破壊され、「土壌クラスト」と呼ばれる皮膜が形成される。この結果、25-30mm/h程度の降雨があれば、ホートン型地表流が発生するというのです。>引用
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/a74682b03f59cca8f35e28723b72db6e [1]
 実は、小学生でも実感できる計算モデルの違いが決定的であるようです。これも「代替案」の中で、展開されています。
 社会統合を担う人たちは、優秀であるはずなのに、なぜこんなことになるのでしょう?
かれらとて、事実がどうかという次元では、納得しているらしいのです。
がんじがらめにされた、旧い権限の枠に囚われてその中でしか動けない、考えられないということと、それゆえに現実の世間一般の意識潮流がみえないのではないでしょうか?   by鈴木康夫
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